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【鬼滅の刃】猗窩座が至高の領域に行けなかった理由が深い【きめつのやいば】

2021年11月6日

鬼滅の刃 無限列車

猗窩座が透き通る世界・至高の領域に行けなかった理由

みなさんこんばんは。今回の記事は「どうして猗窩座はいつまで経っても、至高の領域に達することができなかったのか」について考察していきたいと思います。

猗窩座の求めた至高の領域。それは無我の境地。つまるところ鬼滅の刃の世界では「透き通る世界」が、猗窩座の言う至高の領域です。これは、鬼滅の刃・153話で明らかになっていることです。

猗窩座は透き通る世界を開眼した炭治郎を見て、こう言っていました。

闘気の無い人間を、この数百年一度も見たことはない。赤子にすら薄い闘気があった。だというのにコイツは、あの一瞬全く闘気が無くなった。

そこにいるはずのない異物と、対面しているような状態に。感覚が混乱を起こした。俺の羅針は無反応。

だが、そんな事は問題ではない。戦いの場合においては予期せぬこと、初めて遭遇する事態全てを、即座に理解し対処しなければならない。俺はそれができる。

はずだった。しかし、この短時間の戦闘でコイツは何かを掴み、俺の速度を上回った。数百年の武術の粋を、正々堂々真正面から打ち砕かれた。

その瞳の中には、憎しみも怒りもなく、殺気も闘気もなかった。恐らくその瞳が捉えていたものは、俺の求めた「至高の領域」。無我の境地に他ならない。

その境地があるという事を、漠然と感じていたが、今尚俺はそこへ辿りつけずにいた。

これが、猗窩座の言った至高の領域に関する発言です。至高の領域・無我の境地・明鏡止水。様々呼び名はあれど、共通して言えるのは「心を無にする」ということ。

「存在を無にする」とも言えるでしょう。確かに猗窩座は、至高の領域状態の炭治郎を、植物と勘違いしている場面がありました。植物のように、何も雑念がない無の状態。

どうしてこの領域に、猗窩座は達することができなかったのか。そもそも鬼になってから何百年も経つというのに、その領域まで行けなかった猗窩座。これには何か理由があるはず。

鬼と至高の領域

猗窩座は煉獄杏寿郎に、こう言っていました。

「その闘気、練り上げられている。至高の領域に近い」

ここで僕はこう思いました。猗窩座は何百年経っても至高の領域に至っていないのに、煉獄さんは20年そこらで至高の領域に近い?

僕が猗窩座ならこう思ってしまいます。

「あれ?俺の限界ってここまで?」

鬼になって何百年と修行しても、結局至高の領域に達していない猗窩座。わずか20年で至高の領域一歩手前の煉獄さん。そして、たった15年で至高の領域に達した炭治郎。

これってもしや、鬼になった方が到達しにくい領域なのでは?そうも思いました。しかし、一人だけ例外がいます。黒死牟です。

黒死牟は、透き通る世界を開眼しています。なので、鬼になったから至高の領域に行けないというのは、少し違うような気がします。ただ、黒死牟がいつ透き通る世界を開眼したのかによって、これは考察が変わってきます。

人間時代に開眼していたのなら、そのまま鬼になっても開眼したままだったかもしれません。また、鬼になってから開眼した可能性も、ゼロではありません。ここの真相は明らかではありませんが、もう一つ考えられる考察があります。

それは、猗窩座の過去が大きく関与しています。

猗窩座の過去

猗窩座の性格といえば、話し好き。公式ファンブックでも猗窩座は話しが好きで、人間が好きなのではないかと言われていました。

そして人間時代の面影を、数多く残していた猗窩座。全身の青い線上の痣は、罪人の刻印と似ている。紅梅色の髪は、恋雪の着物と同じ色。鬼への勧誘は、人手不足の道場への勧誘を思わせる。

怪我や病気が即座に治る鬼への賛美は、家族が全員早死にしてしまったことに対する感情。術式展開で現れる模様は、恋雪のかんざしを思わせるもの。

破壊殺・羅針の効力は、自分の目の届かないところで、大切な人を二度も失ったことへの後悔の表れ。術式展開の構えは、師範と同じ素流の構え。

技の名前は花火の種類。これは、恋雪と花火の下で約束を交わしたことが関係している。強さへの執着は、強くなって父に薬を届けたい想い。弱者への嫌悪は、自己嫌悪の表れ。

炭治郎に「卑怯者」と言われて感情を抑えきれなかったのは、正々堂々戦わなかった弱者に、毒を盛られたことへの怒りと同じもの。

テリトリーを持たないのは、帰る家を失くしたまま鬼になったから。喋るのが好きなのは、他愛もない会話で人を救ったことがある、過去の喜びから。

これだけ過去を引きずっている猗窩座。これは「後悔・雑念・喜びなどの感情が、いつも身にまとわれている」とみてもいいでしょう。まずこれが、猗窩座が透き通る世界・至高の領域に達することができない理由の一つ。

至高の領域・無我の境地は、それこそ雑念や感情の起伏がない無の状態。猗窩座のような状態では、まず到達は不可能だったでしょう。そして強さへの執着に関しても、猗窩座の過去が間違った方向へ導いています。

猗窩座自身は強くなるために鍛錬を重ね、日々強くなっているつもりでしたが、どうしても至高の領域の壁を超えることができませんでした。

ただ強さを求めるだけであれば、女性を喰らい、鬼への勧誘などはする必要がありません。女性を喰わない猗窩座は、単純な鬼の能力値で童磨より下。至高の領域に達していた黒死牟には、どうあがいても勝てなかったでしょう。

そもそも鬼同士は群れないように作られていますし、猗窩座の言うように「杏寿郎と永遠に戦い続ける」ということも、無惨によって禁止されるでしょう。なので鬼への勧誘についても、強さへのメリットは特にないでしょう。

猗窩座自身は気づいていないと思いますが、強さを追い求めているようで、本当は過去への執着・雑念・感情にとらわれているだけ。それが猗窩座です。だから至高の領域には行けなかった。

猗窩座の強さを追い求める感情というのは、人間時代の自分が弱者だったという、自分で勝手に貼ったレッテルを振り払うためのもの。自信があるようにも見えますが、それが実は、自己嫌悪からくるものだったのです。

まとめ的なもの

黒死牟の話に戻ります。黒死牟は寡黙。そして、真に強さを追い求めていた武人です。それは人間時代からそうでした。縁壱になりたい一心で、ひたすら強さを追い求めていた。

しかし、猗窩座は違います。猗窩座は、家族を守るためだけの強さを求めた。しかし、それが人間の手によってぶち壊されてしまった。

自暴自棄になり、人間を殺し、そして鬼になった猗窩座。このあたりも、自ら望んで鬼になった黒死牟とは違う部分です。

そしてもう一つ。煉獄杏寿郎の言った言葉も、深い意味があると思いました。そのセリフはコチラ。

「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」

この言葉、猗窩座にとってはとても突き刺さる言葉でしょう。肉体だけの強さを半端に追い求め、狛治の時にようやく取り戻した、心の強さを失くしてしまった猗窩座。

執着や雑念にとらわれ、鬼になって数百年経っても最強にはなれず、女を喰らう童磨にあっさり抜かれる…

こう考えると、猗窩座も悲しい鬼でした。それに、改めて黒死牟の強さというものが半端ないことも気づけました。

というわけで、今回の記事は以上です。もうすぐテレビアニメ鬼滅の刃・無限列車編の第4話です。楽しみに待ちましょう。

鬼滅の刃のゲーム・ヒノカミ血風譚では、猗窩座と累の使用が可能となりました。最近対戦を何回かやったのですが、負けると嫌なのでなかなかやる気が起きません…

それでは今回はこのあたりで。さようなら!

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