テレビアニメ「鬼滅の刃」刀鍛冶の里編11話・最終回が3日後に放送です。放送日は6月18日。70分スペシャルでの放送です。
昨日の動画では、最終話の一部・原作125話の内容を深掘りしました。注目ポイントとして、玄弥の鬼化が爆血で解けたこと。鬼化が解けたことで、玄弥が禰豆子の名前を叫んだこと。そして、時透無一郎の投擲。全集中の極意を使用した円舞一閃。125話だけでも、これだけの注目すべきポイントがありました。
今回は、126話について深掘りしていきたいと思います。原作126話のタイトルは「彼は誰時 朝ぼらけ」。これはアニメ最終話のタイトルにも使用されています。彼は誰時・朝ぼらけとは「朝方で薄暗く見えにくいが、彼は誰ぞ」という意味。126話の あるシーンについて示唆するタイトルです。
ということで、原作126話をじっくり深掘りしていきます。126話はとうとう決着の回。半天狗の回想、お奉行様、太陽克服など、注目のイベントが目白押しです。いいねとチャンネル登録をよろしくお願いします。共有ボタンもプッシュ。では参ろう。
特殊エンディング
本題の前に、アニメ11話・最終回のオープニング曲について考えます。今回も特殊エンディングになるのかどうか。遊郭編の最終話では、いつものように冒頭にオープニング曲が挿入されるのではなく、後半のエピローグの部分にオープニング曲が挿入されました。
つまり、遊郭編の最終回はエンディング曲がなく、エンディング曲の代わりに オープニング曲が採用されたのです。そして そのままエンドロールに入っていき、遊郭編は終了。
また、遊郭編10話では特殊エンディングが採用されました。妓夫太郎と堕姫の頸を斬った後、最期の血鬼術により 遊郭が破壊しつくされるシーン。崩壊した遊郭をバックに、静かな音楽が流れる。近くにいた炭治郎達は血鬼術に巻き込まれてしまった。そういった 絶望を演出するための特殊なエンディングでした。
これらを刀鍛冶の里編に置き換えてみるとどうでしょうか。アニメ刀鍛冶の里編・10話は既に放送済みで、10話に特殊エンディングはありませんでした。
11話・最終話のオープニング曲・絆の奇跡についてはどうでしょうか。これは 遊郭編と同じような流れになる可能性はあります。冒頭の絆の奇跡はなく、後半に挿入される。問題はそのタイミングです。
私の予想では、刀鍛冶の里編11話・最終回は 原作125話~129話までいくと考えています。126話で戦いが終わり、127話の最後に 刀鍛冶の里編のエピローグが来る。そして128話からは、柱稽古編の前日譚が描かれていく。
最終回の終わりは129話の最後、伊之助が 合同強化訓練と叫ぶところで終わる。ここに最後のエピローグとして、アニメオリジナルシーンが挿入されるかもしれない。つまり私の予想では、構成的に二つのエピローグがあるということになる。ここは遊郭編とは少し違う部分。
もしも冒頭に絆の奇跡がなく、エピローグに挿入するとしたら、どちらに挿入するのか。刀鍛冶の里編のエピローグ部分なら、途中で絆の奇跡が流れることになる。
原作127話の、鬼舞辻無惨と太陽克服についての説明が終わった後から、127話の終わり・皆が抱き合うシーンあたりまでで 曲が流れる線が強い。遊郭編ではエンドロールが流れましたが、アニメの途中にエンドロールはさすがになさそう。
最終回の終わりに 絆の奇跡を持ってくる流れはどうでしょうか。絆の奇跡は、刀鍛冶の里編のオープニングという印象が強いので、最後に持ってくるというよりは、やはり皆が抱き合うシーンで流れてほしい。というのが個人的感想。
今までにない特殊なパターンとしては、刀鍛冶の里編のエピローグ部分で 絆の奇跡が流れ、エンドロールではなく、戦いの振り返りのアニメが流れるというパターン。いつものエンディングのような形で、途中に絆の奇跡が流れる。
このような形なら、ただのエンドロールで 視聴者が離脱してしまうことも少ないでしょう。そして曲が終わると、蝶屋敷のシーンへと移り変わっていくといった流れ。
みなさんはどうお考えでしょうか。ぜひ意見を聞かせてください。オープニング曲はどうなるのか問題。予想して当てましょう。コメント欄にてお待ちしております。
原作126話
彼は誰時 朝ぼらけ
原作125話、ヒノカミ神楽・円舞一閃にて半天狗・恨の鬼の頸を斬った炭治郎。戦いは終わった。炭治郎は、目の前の敵の消滅よりも 気になることがあった。「夜が明け 陽が射し始めている」。陽に当たると禰豆子は消滅してしまう。
崖から落ちた衝撃で、意識を失っていた禰豆子。ようやく意識を取り戻したものの、動き出す気配がない。炭治郎は禰豆子に「陽の光から逃げろ」と伝えようとする。しかし、戦いの疲労により声が出ない状態。
禰豆子は炭治郎の元へ走り出す。止める炭治郎。炭治郎は、禰豆子が自分を心配して来たのだと思った。しかし、禰豆子は別のことを伝えようとしている。
半天狗がまだ生きている。頸を斬って死んだはずの半天狗。体だけの状態で刀鍛冶を襲っている。炭治郎が斬ったのは 恨の鬼の頸。実は本体は 怯の鬼だったのです。炭治郎は舌の文字の違いで そのことに気づく。
恨の鬼
恨の鬼はどうやって出現したのか。ここは考察ポイント。原作125話で、炭治郎が半天狗本体の頸を斬りかけた際、突然半天狗が巨大化した。漫画では、いつ入れ替わったのかは分からない。突如として怯の鬼が巨大化し、舌の文字が恨みに変わっている。
ここでは二つのパターンを考えた。一つ目は半天狗・怯の鬼が、頸を斬られた瞬間に、瞬時に外側を恨の鬼で覆った。そして自身は隠れた。
二つ目のパターンは、そもそも最初から 逃げ回っていたのは本体ではなかった。最後に追いかけっこをしていた半天狗は、実は本体ではなく、その中にも小さい半天狗が既に隠れていたと。つまり、怯の鬼の中にもう一人怯の鬼がいた、マトリョーシカスタイル。
最強の卑怯者・半天狗のことですから、二つ目のパターンも十分に考えられる。本体と見せかけて、実は本体ではなかったパターン。あなたはどちらだと思いますか?コメント欄で教えてください。
朝ぼらけ
半天狗は死んでいなかった。急いで討伐に向かう炭治郎。しかし、ここで太陽の光が射し込んでくる。体が妬け始める禰豆子。炭治郎は言う。「まだ陽が昇りきってなくても これほど」。
ここで一旦、タイトルの朝ぼらけを回収。禰豆子が妬け始めたのは、太陽の光が射し始めたから。しかし、これは完全に太陽が顕現したからではないと思います。
これは、朝ぼらけの意味を表している。朝ぼらけは、朝方に ほのぼのと明るくなる頃を意味しています。つまり、太陽はまだ姿を現しておらず、夜明け方から ゆっくりと明るくなっていく様子。直射日光でなくても、鬼は消滅するということ。
彼は誰時の意味は、薄暗く誰か分からない様子を指す言葉。この時点では まだ薄暗いはずなのです。ここはアニメでどのように描写されるのか。
漫画では「カッ」という効果音と共に光が射し込んでいるので、意外に明るかったりするかも。薄暗いのに禰豆子が妬けるという描写も、結構難しい。アニメの描写に注目。
禰豆子の決断
禰豆子を庇う炭治郎。体を縮めろと言うが、それも出来ないほど 光の影響を受け苦しむ禰豆子。そして、半天狗に襲われる刀鍛冶。時は一刻を争う。
炭治郎は、無一郎・玄弥に助けを求めようとする。しかし、二人は崖の上にいて すぐには向かってこれない状況。無一郎は柱とはいえ、毒の影響が残っているのでしょう。鬼化した玄弥なら来れたかもしれない。しかし、玄弥は爆血の効果で鬼化が切れてしまっている。
半天狗も鬼なので、禰豆子と同じく妬け始めている。だが、消滅前に人間を喰ってしまう可能性が高い。禰豆子を抱えながら、半天狗を倒しに行っても間に合わない。
決断できない炭治郎。刀鍛冶を守るか、妹を守るか。他人を守るか、家族を守るか。人を守るか、鬼を守るか。炭治郎最大の目的は、禰豆子を人間に戻すこと。もちろん鬼殺隊士の役割も重要だけど、同じぐらい妹も大事。決断できないのも無理はない。
先に決断したのは禰豆子でした。炭治郎を思い切り蹴り上げる。最愛の兄を思い切り蹴るという、普段の禰豆子なら絶対に取らない行動。そして、禰豆子は全身を妬かれていく。
宙に舞いながら、禰豆子が妬ける様子を見る炭治郎。禰豆子は笑った。まるで、自分より人を優先して大丈夫と、私は大丈夫 と伝えているような。
禰豆子 笑顔の真意
ここでの禰豆子の気持ちを考えてみた。禰豆子の笑顔は、諦めの笑顔なのか、それとも確信の笑顔なのか。「私は死んでも大丈夫、人を守って」という意味なのか、それとも「私は死なない」という意味の笑顔なのか。
私は後者だと面白いと感じました。「私は太陽を克服するから、安心して行ってこい」という意味の笑顔。こう考えると、アニメの見え方も変わってくる。禰豆子がとても頼もしく見える。
この考察にはいくつか根拠があります。まずは珠世の発言。「禰豆子さんの血の成分は、短期間で何度も何度も変化している」。これはおそらく「禰豆子が体内で、血の成分の実験をしている」ということの表れ。太陽を克服するための血の変化を、自ら起こしていたということ。
そして珠世はこうも言っていました。「禰豆子さんの自我が戻らないのは、自我を取り戻すよりも重要で、優先すべきことがあるから」。これは自我よりも 太陽克服を優先していたからに他ならない。
珠世は予言していました。「憶測ですが、禰豆子さんは近いうちに太陽を克服する」。珠世は薄っすらと気づいていたのです。禰豆子は太陽克服のための 血の変化を自ら起こしていると。そして完成は近づきつつあると。
珠世も長年 血の研究を続けてきた鬼。その珠世が気づいているのです。これは間違いないでしょう。禰豆子の頻繁な血の成分の変化は、太陽克服のための変化だった。
つまり、禰豆子の笑顔の真意は「私は太陽を克服するから、安心して行ってこい」というもの。言葉が喋れないため、それを力づくで伝えた。また、オープニングの禰豆子の笑顔のシーンは、ここのシーンを示唆していると思われる。
太陽克服の完成
禰豆子の太陽克服は いつ完成したのか。これは、実際に太陽の光を浴びた瞬間です。禰豆子は 体内で実験を繰り返していたものの、太陽の光を浴びたのは初めてです。
今回は、不意にぶっつけ本番となった形です。そこで、最後の仕上げを瞬時に行った。太陽克服を確信した禰豆子は、炭治郎を思い切り蹴り上げ、そして「私は死なない」と笑顔を見せた。
炭治郎を蹴り上げる前の 禰豆子の一コマ。禰豆子は何かを考えています。「ここで禰豆子は太陽の克服を完成させた」。そう考えることもできます。
また、コメント欄で面白い考察を見つけました。禰豆子が 炭治郎の刀に爆血を付与する際のこと。禰豆子は日輪刀を握りしめています。実はここで「太陽克服の何かしらのヒントを得た」という考察がありました。
日輪刀といえば、太陽光を吸収した素材でできた、太陽との関連性が深いもの。この考察も 的を得ている可能性は高い。とすると、不死川実弥が禰豆子を刺したことも、実は意味があったという事になります。あそこでも 日輪刀から何かしらのヒントを得ていた。そう考えると、実弥が刺したことも少しは報われる。
また、やはり禰豆子の爆血の能力も、太陽克服に関与している可能性は高い。鬼の血鬼術を打ち消せる爆血。太陽の光と似ている性質を持つ。日輪刀とも共通点があります。
禰豆子は爆血から、鬼の血鬼術を打ち消す成分、つまり太陽と同じ成分を分析した。そして、体内で様々な実験を繰り返し、日輪刀からもヒントを得て、最後に実際に太陽を浴びることで 太陽克服を完成させた。いや、天才かよ。
まとめ的なもの
そもそも禰豆子は、どうして太陽を克服しようと考えたのか。これがまた深い。理由は「昼も炭治郎と一緒にいるため」。禰豆子は無惨のように、保守のために太陽を克服したいとは考えないでしょう。ただ炭治郎と一緒にいたい。その一心で太陽克服を目指した。そう考えるとエモすぎる。
ということで、今回は原作126話を全て深掘りしようかと思いましたが、禰豆子の笑顔が深すぎて断念。明日続きをやります。みなさんは、禰豆子の太陽克服についてどう思いますか?コメント欄で意見・考察をお待ちしております。今回は以上です。それではまた。