各章のダイジェストとエンディングのマッチ度が高い
ダイジェストは、立志編・無限列車編・遊郭編と進む。この時流れる曲が各章のエンディング曲。無限列車編は白銀、遊郭編は朝が来るが流れた。
思えば今まで「エンディング曲とダイジェストの組み合わせ」というのは観たことがないかもしれない。既出かもしれないが、僕が観たのは初めて。やはりオープニング曲のイメージが強いので、エンディング曲とダイジェストのタッグはとても新鮮なものだった。
ラオスの人に日本の情緒が伝わってほしい
日本の映画を海外で観ると、日本人の素晴らしさを改めて感じる。日本人だからこそ感じられる深い感情・情緒。先進国ゆえか、日本人という国民性ゆえか、ここまで深い人間性を持つ人種は少ないと思う。
発展途上国のラオスでは、教育レベルも低く、日本のアニメのような深みのある作品に触れる機会も少ない。なので正直に言うと、ラオス人は鬼滅の真の素晴らしさを理解できていないだろうと思う。そこには翻訳の壁もある。
真のファンであれば、日本語を深く理解し、言葉一つ一つをとことんまで深掘りするだろう。しかし、ネイティブな日本人に比べると、やはり理解度は落ちてしまうと思う。
日本人に生まれたことは素晴らしいことだ。そして、ドラゴンボールや鬼滅の刃などという日本のアニメを、あらためて誇りに思う。
刀鍛冶の里編 最終回
ワールドツアー上映では、ダイジェストの後に刀鍛冶の里編11話が始まった。時透無一郎・甘露寺蜜璃の活躍が少なかったのは少し残念だったが仕方ない。ここは今後、時透無一郎特集や甘露寺蜜璃特集に期待。
やはり映画館で観ると、大きなスクリーン・音が相まって、迫力・臨場感が桁違い。全話を映画館で上映してほしいぐらい。いつかしてほしい。
玄弥の鬼化解除
禰豆子が爆血で恨の鬼を燃やした際、玄弥にも爆血が飛び火しました。玄弥はここで鬼化が解除。実はここ、少し謎が多い場面でもあります。
玄弥は鬼を喰っているから爆血で燃える。それはわかる。問題は、玄弥の鬼化解除は爆血の影響なのか、それとも玄弥が自分で鬼化を解除したのかということ。
僕の予想では、禰豆子の爆血が良い方向に働き、玄弥の鬼化の影響だけを取り除いたと推測しています。ただ、玄弥が自分で解除することも可能という線もゼロではありません。理性がある時は可能なのかも。
また、あのまま玄弥が鬼化したままだったら、朝日に当たるとどうなっていたのか。鬼化を強制解除させられたのか、それとも玄弥ごと消滅していたのか。
禰豆子の爆血は特殊なので、玄弥は消滅せずに済んだという考えもある。朝日だったらやばかったかも?もしくは、爆血でも朝日でも、玄弥は鬼化を強制解除させられるだけで、生身には影響がないということか。このあたりは謎なままである。
刀鍛冶の里編はマジでおもしろい
刀鍛冶の里編はマジでおもしろい。アニメ化とワールドツアー上映により、これが揺るがないものになった。善逸・伊之助の不在により、人気は落ちると考えられていたけど、今はそんなことを言う人も少ないだろう。
炭治郎と禰豆子の最後のタッグ、霞柱と恋柱の二人の柱。そして上弦が二人。これだけの豪華メンバーが、各々大迫力のバトルを繰り広げた。今まで時透無一郎や甘露寺蜜璃ファンでなかった人が、刀鍛冶の里編で一気にファンになった。そういった人も多いだろう。
上弦に関しては、人気はないけど腐れ外道具合はトップクラス。こういった純粋悪を倒す展開も良かった。
ただ、遊郭編と比較すると、やや決着が見劣りする部分がある。炭治郎・善逸・伊之助の咆哮と共に、上弦の陸の頸を斬る。遊郭編のあの決着に比べたら、刀鍛冶の里編の決着はあっさりしたもの。
しかし、その後の感動は、刀鍛冶の里編に軍配が上がる。死んだはずの禰豆子が生きていた。アニメでは音楽も相まって全世界が号泣。知っていても涙したが、原作を知らずに初見の人が羨ましいとさえ思えた。
まだまだ刀鍛冶の里編の面白さを全ては語り切れていないけど、とにかく刀鍛冶の里編も面白い。鬼滅の刃という作品は、全体を俯瞰した時、初めて真の面白さが分かる。章単体の評価しかできないというのは、その程度のレベルということだ。
握った拳の意味
禰豆子が炭治郎を蹴り飛ばした時、禰豆子は最後の力を振り絞り、拳を強く握った。そして禰豆子は、炭治郎に笑顔を向けた。あの拳と笑顔の意味はどんなものだったのか。「私は大丈夫」、「後悔はない」。様々な禰豆子の感情を想像することができる。
禰豆子は死の直前で、苦しい状態。しかし、苦しんでいたら炭治郎は前に進めない。そこで出たあの笑顔。炭治郎に前に進めと、笑顔で逝くから悲しむなと。そういったメッセージのようにもとれる。
そしてあの、胸の位置で握った拳には「心を燃やせ」のメッセージも込められていたように思う。「心を燃やせ」とは、煉獄さんの遺言。あの言葉には前後の言葉も重要だ。
「胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさに、どれだけ打ちのめされようと。心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け」。
禰豆子が握った拳には「心を燃やせ」というだけではなく、こういった前後のメッセージも込められていたのではないだろうか。
私が死んでも胸を張って生きてほしい。いや、胸を張るためにも上弦を倒せ。
己の弱さ・不甲斐なさとは、禰豆子を守れなかった弱さ・不甲斐なさ。それらに打ちのめされようと、心を燃やして生きていけ。歯を食いしばって前を向け。
二人は言葉を交わす手段がなかった。だから煉獄さんの言葉を借りた。そして、煉獄さんの遺言には続きがある。
「君が足を止めて蹲っても、時間の流れは止まってくれない。共に寄り添って、悲しんではくれない」。
蹲っても時間は止まってくれない。今まさに、半天狗が人間を襲おうとしている。一刻を争う状態。少し厳しめにも思える煉獄さんの言葉。しかし、最後の言葉で前に進ませてくれる。
「俺がここで死ぬことは気にするな。柱ならば、後輩の盾となるのは当然だ。柱ならば誰であっても同じことをする。若い芽は摘ませない。もっともっと成長しろ。そして今度は君達が、鬼殺隊を支える柱となるのだ。俺は信じる。君たちを信じる」。
これを禰豆子の言葉に置き換えるなら、「私がここで死ぬことは気にしないで。鬼殺隊士なら、人の盾になることは当然。誰でも同じことをする。お兄ちゃん、私がいなくなっても鬼殺隊を続けて。そして、鬼殺隊を支える柱になって。私はお兄ちゃんを信じる」。
実は禰豆子も、煉獄さんの意志を継いでいたのかもしれない。それが絆というもの。そして、炭治郎はあの一瞬ですべてを思い出し受け取った。煉獄さんの心を燃やせ。そういった描写はなかったけれど、炭治郎は確かに感じていたと思う。
禰豆子は煉獄さんの遺言を直接聞いてはいませんが、炭治郎から話していたのは確実。言葉がなくても伝わる「心を燃やせ」。言葉はなくても、二人の合言葉になっていたのかもしれません。つらくて くじけそうな時は、胸に手を当てこう言おう。「心を燃やせ」。
半天狗の人生をラオス人はどう見るか
これだけは言える。半天狗はラオスでも世界でも人気はないだろう。人間時代から根性の腐った嘘つき・盗人・人殺し。過去をみても特に感情移入できる部分はなく、半天狗が好きな人はサイコパスと言わざるを得ない。
ただ、半天狗はあれでいい。あの容姿に感動的なエピソードがあったとしても、感情移入度は半減する。刀鍛冶の里編の敵キャラは、揃ってクソ野郎でいいのである。
ラオス人が半天狗に対してどういった感情を抱いたかについては、また聞いてみたい。おそらく、そこまで深く考えることはなく「単純に悪い奴」ぐらいの感覚だと思う。
「よかったね」の、カタコトは伝わらない?
日本語のカタコトって、海外ではどのように表現されるのか。翻訳を見る限り、カタコトと分かるような描写はなかった。これは日本語ならではなのか、英語だと表現方法があるのか。詳しい人はコメント欄で教えてください。
刀鍛冶の言葉と玄弥の笑顔もやはりいい
あまり注目されていないモブの刀鍛冶たちの言葉。
「二人共ありがとうなあ。俺たちのために。。禰豆子ちゃん死んでたら申し訳が立たなかったぜ」。
この言葉、妙に染みる。禰豆子が死んでいたら、刀鍛冶たちは一生責任を感じていたかもしれない。
そして、玄弥の笑顔もやはり良かった。炭治郎を毛嫌いしていた玄弥の、兄妹が生き残ったことに対し自然と出た笑顔。共に戦える兄妹。竈門兄妹こそ、玄弥の理想像。
玄弥も実弥と共に戦いたいと願っている。その理想を叶えている竈門兄妹。さらには上弦との死闘を二人で生き抜いた。玄弥にとって、これほど嬉しいことはないでしょう。いつか不死川兄弟もそうなれたら。。
鬼舞辻無惨
そして鬼舞辻無惨パート。印象的なのは、殺害した人の死体を蹴って歩くところ。無惨の人を何とも思っていない人格の異常さがよく表れています。
また、善良な医者の不気味な笑顔も印象的でした。鬼舞辻無惨という鬼を生み出した元凶。善良そうに見えて、実は鬼を使って混乱を招く目的があったのではないか。無惨に殺されてしまったので、真相は定かではありません。
エピローグ
刀鍛冶の里編は、とても重要な章でした。炭治郎が鋼鐵塚に会いに行かなければ、おそらく刀鍛冶は壊滅していたでしょう。もともと柱2人と玄弥はいましたが、炭治郎と禰豆子がいなければ、確実に勝てていなかった。そしてここで刀鍛冶の里が壊滅していたら、物語は終わっていたでしょう。
刀鍛冶の里編は、炭治郎が鋼鐵塚に会いに行くことから始まりました。それを思い出させてくれたのが、アニメオリジナルのエピローグ。炭治郎と鋼鐵塚の関係性がなければ、そもそも始まっていなかった。
目隠しを外した後に里の皆が礼を言うシーンも良かった。僕はこのシーンでNARUTOが里の英雄と呼ばれるきっかけとなったシーンを思い出しました。
ペインとの戦いを終えて、疲れ切ったNARUTOをおぶって歩くカカシ。歩く先で里のみんながNARUTOを出迎えたあのシーン。あのシーンに既視感を感じたのは、私だけではないでしょう。
炭治郎もここで里の英雄になったのです。
おわりに
今回は主に、刀鍛冶の里編・最終回について振り返っていきました。やはり鬼滅の刃は面白い。
そして、いよいよ鬼滅の刃のアニメも大詰めに入りました。柱稽古編という箸休めがありつつ、そこからは一気にクライマックスです。無限城からは、ほぼノンストップの戦いが続く。
柱稽古編が終わると同時に、無限城編・映画化決定という流れが、今までから考えると濃厚でしょうか。そのまま一気にアニメでという線もありますが、鬼滅の刃としても、無限城編の冒頭はかなり大事な局面なので、ここは時間をかけてじっくりやるでしょう。
柱稽古編が5月からの理由は、話数が短いことと、テレビの放送枠の都合上と聞きました。
無限城編は来年でしょうか。2025年。とても楽しみです。皆さんはもう映画館に行かれましたか?あなたの感想もぜひ聞かせてください。今回は以上となります。それではまた。