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頸を斬っても死なない理由
みなさんこんばんは。今回は「頸を斬られても生きていた鬼の謎」について考えていきたいと思います。頸を斬られても生きていた鬼は、物語に3人登場しています。鬼舞辻無惨・猗窩座・黒死牟の3人。
そもそも鬼を「一人・二人」と数えるのかという問題は置いといて、この3人が、頸を斬られても生きていた鬼です。今回は、この3人がどうして頸の弱点を克服できたのかについて、深掘りしていきたいと思います。
頸
本題に入る前に、ちょっとだけ「頸」という漢字について。鬼滅の刃の世界では、鬼の倒し方として「頸を斬る」という漢字が常用されています。
普段僕たちがよく使う「首」という漢字ではなく、「頸」という難しい方の漢字です。これには何か意味があるのか?ふと気になったので、少しだけ調べてみました。
結論として「首」は首の部分より上、つまり頭も含まれる言い方。そして「頸」は、頭と胴をつないでいる「頸部単体」のこと。こういった解釈が、一番スッキリするのかなと思いました。
つまり鬼滅の刃では「頸を斬る」という漢字を使うことで、頸部をピンポイントで斬る必要があると、それが分かりやすいように「頸」という漢字を用いたということです。
鬼は頭を潰しても死なないので、頸単体を日輪刀で斬る必要があると、分かりやすくしたのではないでしょうか。ただ、頸部単体でも「首」という漢字を用いるのは、間違いではないようです。日本語って難しいね。
猗窩座
というわけで本題です。まずは、一人ずつ振り返ってみましょう。猗窩座は、炭治郎のヒノカミ神楽・斜陽転身によって頸を斬られています。
つまり日の呼吸によって、頸を斬られているということになります。そして、斬られた猗窩座の頭部は消滅。しかし、胴体はいつまで経っても崩れることがなく、猗窩座は胴体だけのままで戦い続けています。
ここで猗窩座は、強さに対して異様な執念を見せ「不屈の精神」という師匠の言葉を思い出しています。
猗窩座単体で考えるなら、おそらくここが「頸の弱点を克服した理由」の大きな要因と言えるでしょう。つまり精神力です。ここについては、次項の黒死牟についての部分で詳しく触れます。
黒死牟
頸の弱点を克服した二人目。黒死牟は、実弥と悲鳴嶼さんの共同赫刀で頸を斬られています。これは日の呼吸ではなく、赫刀というだけです。そして黒死牟も猗窩座同様、体が崩れることはなく、ついには頭まで再生してしまいました。
再生した頭は化け物のようになっており、実弥の刀に写った自身の姿を見て黒死牟は「化け物になりたかったわけではない」ということに気づき、消滅していくこととなりました。
黒死牟はなぜ、頸の弱点を克服できたのか。これは猗窩座の時と同じく、おそらく精神力によるもの。
黒死牟は弱点を克服する際に「二度と敗北しない」「まだ死ねない」と、猗窩座と同じような事を考えています。つまり、強さに対しての執念・生への執念が、頸の弱点を克服するに至ったということです。
これは、童磨との違いを見ても明らかです。童磨は死の直前、このように言っていました。「死ぬことが怖くもないし、負けたことが悔しくもない」。
これが童磨の、猗窩座や黒死牟との違い。元々人間としての感情がほとんどなかった童磨は、強さや生に対しての執着もありません。
これを見るとやはり、猗窩座と黒死牟が弱点を克服できて、童磨が克服できなかった理由は明らかです。では、鬼舞辻無惨はどうだったのでしょうか。
鬼舞辻無惨
鬼の始祖である鬼舞辻無惨は、どうして頸の弱点を克服することができたのか。これについては、実は不明な部分です。
頸の弱点克服が明らかになったのは、縁壱と戦った時、頸を斬られても分裂して逃げることができたからです。これ以前の話では、無惨の頸については触れられていません。
もしかしたら、以前から克服していたのかもしれないですし、縁壱に頸を斬られたことで、初めて克服したのかもしれません。あとは、心臓が七つ・能が五つあった無惨ですから、それも何かしら関係している可能性はあります。
無惨は、強さへの執念というものよりは、生への執念が人一倍強い鬼です。無惨は、胎児の頃に何度も心臓が止まり、生まれた時には脈も呼吸もなく、一度は死産と判断されています。
そこからなんとか息を吹き返すも、虚弱な体質は変わりなく、医者からは「二十歳までに死ぬ」と言われていました。なので、無惨は生まれた時、いや生まれる前から、生への執念を持ち続けていたのです。
この執念の強さが、無惨の頸の弱点克服へと繋がった。結論としては、そういう事だと思います。
この生への執念は、無惨が鬼になっても変わることはなく、太陽克服のためなら何でもする、そして縁壱からは逃げ続ける、そして最終決戦でも生き延びるために逃亡したり。いろんな場面で、その執念を見せています。
一旦まとめると、猗窩座や黒死牟、そして無惨との共通点で言うなら、頸の弱点の克服要因は「生への執念」ということになります。
猗窩座と黒死牟に共通する「強さへの執念」は、鬼舞辻無惨には当てはまりません。鬼舞辻無惨は、生きるために体を強くしたかたったものの、猗窩座や黒死牟のように、戦いにおける強さを求めていたわけではありません。
ここでふと思ったのですが、杏寿郎が言った「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」という言葉。この言葉も、猗窩座や黒死牟、無惨の精神力について、何かつながるものが見えてきますよね。
別の視点
ここからは、少し変わった視点から、頸の弱点克服について考察してみましょう。最初にこの考察を考えた時、猗窩座と黒死牟・無惨の3人から、とある共通点が見えてきたのです。
それは3人とも「日の呼吸で斬られている」ということです。猗窩座は炭治郎のヒノカミ神楽、つまり日の呼吸で頸を斬られています。黒死牟は縁壱と戦った時、頸を少しだけ斬られています。
そして無惨もまた、縁壱によって頸を斬られています。最初は、ここが何かヒントになるのかなとも思いました。
つまり、日の呼吸によって頸を斬られたことで、何かしらの作用が働き、頸の弱点を克服するに至ったのではないかと。それがどういった原理なのかは、考えても分かりません。
それに無惨は、縁壱に斬られる前から克服していた可能性もあるので、この線は、可能性としては薄いのかなと思います。あとは、無惨はどうして上弦の鬼に、頸の弱点克服の原理を伝えなかったのか。そこも気になります。
もしかしたら伝えていた可能性もありますが、そうだとしたら、そう簡単にできるものでもなかったのでしょう。伝えていなかったとするなら、克服をさせるのを嫌がっていた可能性もあります。
しかし、無惨の目的は太陽の克服と鬼殺隊の殲滅です。鬼殺隊の殲滅を図るなら、頸の弱点を克服させておいた方がいいはず。
やっぱり頸の弱点克服の原理は、伝えていたけど一朝一夕にできるものではなかった。そういう事なのかもしれません。
最終結論
最終結論です。頸の弱点を克服できた理由は「生への執念」。これかと思います。生への執念は、無惨・猗窩座・黒死牟が見せていたものと、童磨の生への執着のなさの違いから、明らかな部分です。
理由はどうあれ、とにかく生きたいという想いが、鬼にとっての致命的な弱点を克服するということ。なんだかこういう風に言うと、ちょっとかっこいい様にも見えてきます。
とにかく、生きられるなら何でもいい。生きてさえいれば、いずれ弱点を克服することも可能だと。
でもやっぱり、そのために人を犠牲にするのは良くないこと。やっぱり僕は杏寿郎の「老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ」という言葉の方が好きです。
あと「無惨の心臓と脳が、頸の弱点克服に関係があるのか」という点についてですが、これはなさそうな気がします。
そもそも無惨は、縁壱にすべての心臓と脳を、斬られているように見えるからです。ここが関係しているのなら、斬られた時点で詰んでいたはず。なのでやはり「生きたい」という強い想いが、頸を斬っても死なない体に変えたのでしょう。
ちなみに、斬られた頸を繋げるということは、どうやら難しいようです。それは鬼舞辻無惨でも、できていませんでした。黒死牟の様に、後から生やすことは可能なようです。
というわけで今回は「頸の弱点克服の謎」について考察してみました。それではまた!